2023年9月26日無料公開記事次代への戦訓 内航NEXT

《連載》次代への戦訓
関西/九州航路のフェリー会社合併
名門大洋フェリー前会長・阿部哲夫氏②

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 私は生まれ育ちも神戸で、1966年に甲南大学経営学部を卒業し産業ベルトメーカーの阪東調帯ゴム(現バンドー化学)に入社し、11年間営業部門で勤務した。仕事にやりがいを持っていたが京阪煉炭工業(現ケイハン、京都市)のオーナーである西田家の娘との結婚を機に77年京阪煉炭工業に入社した。
 京阪煉炭工業は国鉄向けに蒸気機関車の燃料となる豆炭を製造・販売していたが、車両のディーゼル化・電化に伴い鉄鋼関係の製鉄所向けのコークスへと方向を転換し、現在は義理の弟が社長を継いでいる。
 京阪煉炭工業がフェリー事業を始めたきっかけは、新門司の土地だ。義祖父である西田小太郎氏が新門司の海沿いの土地を購入したが、その時点では何に利用するか決まっていなかったようで、自動車教習所をという構想もあったようだ。当時は大阪万博(1970年)の開催を背景に、68年に阪九フェリーが神戸/小倉に全国初の長距離カーフェリーを就航。続いて70年にダイヤモンドフェリー(現フェリーさんふらわあ)が神戸/大分に2隻を投入するなど、関西/九州でフェリーが脚光を浴びていた。そこで、京阪煉炭工業も新門司の土地を生かしてフェリー事業に参入することを決め、70年11月に名門カーフェリー(現名門大洋フェリー)を設立した。当時京阪煉炭工業には京阪海運という子会社があり、小型貨物船を運航していたが、フェリーの運航経験はなかった。運輸省(現国土交通省)にご指導頂きながらのスタートだったと聞いている。
 実際に運航を開始したのは72年で、四日市/新門司航路を開設し、“フェリーかしい”と“フェリーあつた”を就航させた。数カ月後には四日市から名古屋まで航路を延伸している。なぜこの航路を選んだかというと、当時は高速道路が整備途中で、中京地区の貨物を名古屋から九州へ運ぶ目的もあったようだ。社名の「名門」も名古屋/新門司航路からきている。しかし、この航路は紀伊半島を回るため、天候によっては遅延するし、燃費効率が悪いこともあり、1977年に廃止したが、賢明な判断だったと思う。
 現在まで続く大阪/新門司航路は73年に開設され、“フェリーすみよし”と“フェリーはこざき”の2隻を投入した。名古屋/新門司航路時代は車両が十数台しか乗っていない日もあったというから、大阪/新門司航路就航が名門カーフェリーの本格的なスタートと言っていいだろう。
 当時の関西/九州航路では前述のフェリー会社以外にも大阪/苅田航路を運航する大洋フェリー、神戸/苅田航路の西日本フェリー、阪神/別府を結ぶ関西汽船(現フェリーさんふらわあ)など、同業他社がしのぎを削っていた。また73年には本州と九州を結ぶ関門橋が開通したほか、75年に新幹線が東京/博多で全線開通。83年には中国自動車道が全線開通し、大阪と北九州が高速道路で直結された。こうした他モードの攻勢によりフェリーの利用は減っていき、フェリー会社同士の合併が進められた。大洋フェリー(大阪/苅田航路)と名門カーフェリーの2社も運輸省のご指導の下に合併が進められ、84年に「名門大洋フェリー」を設立。当初はそれぞれの会社を残して名門大洋フェリーが2社の船をチャーターする形でスタートし、86年に3社が合併して現体制になった。合併当初は四ツ橋(大阪市西区)に本社を構えた。
 新会社では大阪/苅田航路を廃止して航路を大阪/新門司航路に集約。フェリーを2隻ずつ持ち寄って4隻で運航を開始した。名門カーフェリーの“フェリーはこざき”“フェリーすみよし”は同型船だったが、大洋フェリーの“おりおん”と“ぺがさす”は大きさが異なったため、乗組員や両港のメンバーは苦労したようだ。しかし、そのような状況下でも出身会社の垣根を越えて安全に運航してくれた。海陸従業員の頑張りにより、会社としての一体感が出てきた。同じ海の仲間として協力するという、シーマンシップを感じる機会になった。改めて感謝したい。

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