「よく事を起こす者必ずしも事を成し遂げず、始めをよくする者必ずしも終りをよくせず」という。『史記』列伝の楽毅編にある。諸葛亮孔明や王義之が崇拝してやまない楽毅の言葉だから拝聴する…続き
三井船舶の熊野修一氏がロンドン支店長から東京本社の営業部長に異動した1957年(昭和32年)秋は、スエズ動乱(第2次中東戦争)の終結からおよそ半年が経過した時期にあたる。 振り…続き
三井船舶の相浦紀一郎氏は1958年(昭和33年)営業部遠洋課に異動した。当時の営業部長は熊野修一氏。 三井船舶は1951年(昭和26年)7月、ニューヨーク航路の配船再開を果たし…続き
三井船舶に入社した相浦紀一郎氏は経理部会計課、同主計課、業務部管理課と回り、会計やコスト管理、予算管理の業務を経験して1954年(昭和29年)営業部傭船課に移った。不定期船営業を…続き
小欄はまた間違いをやらかしました。前回、内田信也氏が登場し、氏を概略「三井物産時代の経験を生かして神戸で明治海運を興し“3大船成金”の1人と称せられた」と紹介しています。ここに誤…続き
「若松とか小倉とか、あの辺りの呑み屋やバーの名前を、私は1度も行ったことがないのに今でも覚えています。2年間、(私は)人の呑んだ勘定ばかりつけていました」 1993年(平成5年…続き
1949年(昭和24年)、25歳で就職した相浦紀一郎氏の勤務先は、東京・日本橋の『三井本館』。三井船舶が入居していたからである。新海運人の第一歩は豪儀なものとなった。 記者は小…続き
商船三井の相浦紀一郎氏は1924年(大正13年)の紀元節(2月11日)に生まれた。紀一郎は紀元節にちなんでの命名。1873年(明治6年)、明治政府は神武天皇の即位日(旧暦1月1日…続き
さん付けの呼びかけとちゃん付けのそれでは趣きががらり変わる。例えば『粗忽長屋』などの古典落語に登場する「八ちゃん」。発音を正確になぞれば「八っつぁん」だが、この愛すべき長屋の住人…続き
「1頭の羊が率いる100頭の狼の群は、1頭の狼が率いる100頭の羊の群に敵わない」。と、ナポレオンは言ったらしい。その好例としてある軍事評論家は最近の著作でカルタゴの将軍、ハンニ…続き
1990年代の川崎汽船を縷々、紹介してきたが、途中で事実関係の記述に誤りを犯していた。 本連載212回『審判の日』の条(くだり)で「川汽の長谷川陽一氏はヤンミンに共同運航を申し…続き
川崎汽船、ヤンミンにCOSCOを交えた1996年(平成8年)の3社協議は欧州航路サービスについて「日本起こし、台湾起こし、中国起こしの3ループを開設し、アジア市場全域をカバーする…続き
川崎汽船の共同運航申し入れに対して台湾船社、ヤンミンは長谷川陽一氏に「基本的に受けましょう」と回答した。 共同運航は自社の行く末を左右する一大事であり、疎漏は許されない。今後の…続き
1994年(平成6年)夏、川崎汽船の長谷川陽一氏が訪ねたヤンミンという海運会社を紹介しておきたい。 正式名称は『陽明海運股?有限公司』(英文名=Yang Ming Marine…続き
川崎汽船の長谷川陽一氏は1994年(平成6年)夏、台北のヤンミン本社を訪ねた。 既に欧州航路では川汽、OOCL、NOLの3社が運営してきたACEグループの解散が公にされ、翌95…続き
1994年(平成6年)春、川崎汽船の定航関係者は落ち着かない顔を見せていた。何とかなると思いつつも確たる当てはどこにもないという、中途半端でうそ寒い感じだったかと想像する。中島み…続き
川崎汽船は定航部門の運賃下落とコスト高により1990年代初期からの経営危機に直面した。 比較損益計算書を見ると、経常損益ベースの赤字は94年3月期の5億8900万円があるだけ。…続き
唐突な話題で申し訳ないが、最近よく食品ロスの問題が議論される。 政府広報によると、わが国の食品廃棄量は年間約1800万トン。食糧消費全体のおよそ2割を占める。また廃棄量のうち、…続き
1980年代の太平洋は、アジアから米国へ動く物流を反映し世界最大の貿易圏を形成していた。 その物流を大まかに分析すると、アジア出荷量100のうち60がPSW揚げ、25がPNW揚…続き
コンテナ運用個数が多いと、コンテナ経費が増大する。当たり前の話であり、当然ながら「個数を減らせ」の指示が出る。ところが、いざそれをやろうとするとまず匙加減の難しさに直面する。どこ…続き