逸材を輩出した点で明治はまさに特異な時代であった。それは何やらタンポポの旅立ちに似ている。種子を抱えた綿毛が維新の強風を受けて大挙、空に舞い上がり、やがて新天地に降り、根付き、い…続き
近代、世界に名を馳せた日本人として最も有名なのは東郷平八郎であろう。「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」など、いくたの呼び名が今に伝えられている。本連載100回でも紹介した…続き
山下新日本汽船は1980年代に直面した急激な円高や船腹過剰の深刻化に対処するため僚社、ジャパンラインと相計って、互いに定航部門を分離、これを合体させて新会社『日本ライナーシステム…続き
1992年(平成4年)4月6、7日東京・平河町の海運ビルで第1回アジア船主フォーラムが開催され、7地域(日本、韓国、中国、台湾、香港、豪州、ASEAN)の船主代表は“4S”の問題…続き
本シリーズの前回末尾に紹介した『一般財団法人山縣記念財団』は1940年(昭和15年)の『財団法人辰馬海事記念財団』設立に始まり、その後、『財団法人辰馬海事文化研究所』『財団法人海…続き
山縣勝見氏は、東京海上会長で三菱グループの大立者だった各務鎌吉氏の理解、支援を得て辰馬海上(興亜火災の前身)の経営立て直しに成功した。この再建劇は東京帝大を卒業、辰馬海上に入社し…続き
アメリカで発行される週刊ニュース情報誌『TIME』(1923年創刊)の表紙を飾ったわが国海運人が1人存在する。日本郵船の社長に就いていた各務鎌吉(かがみ・けんきち)氏がその人。 …続き
アメリカには人名に因んだ空港が数多く存在する。 ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港はその代表格。他にジョン・ウェイン空港(カリフォルニア州)やアーノルド・パーマー空港(ペン…続き
アメリカに「日本の聖地」というべき場所が2つある。東岸のポーツマス(ニューハンプシャー州)と西岸のサンフランシスコ(カリフォルニア州)だ。 日露戦争(1904~05年)に勝利し…続き
神戸に移り住んでからの習慣だが、この季節になると必ず出掛けるところがある。夙川(兵庫県西宮市)だ。 六甲山地の“ごろごろ岳”から西宮市を南流し大阪湾に注ぐ全長7kmほどの短い河…続き
大阪商船三井船舶の誕生はその後の三井グループと住友グループの企業合併に先鞭を付けた。あくまで「結果的に」という話である。 三井船舶は三井物産から枝分かれし発足した。つまり歴とし…続き
商船三井が記念すべき年を迎えた。創業130周年と創立50周年が重なるもの。創業130周年は1884年5月1日の『大阪商船』開業、創立50周年は1964年(昭和39年)4月1日の『…続き
朝鮮動乱(1950~53年)に続くスエズ動乱(56~57年)の勃発で世界の海運市況は高騰した。が、58年(昭和33年)に入ると反動も加わって市況は急落した。運賃水準はピーク時の5…続き
“三井ファイト”を総括しておきたい。 三井船舶がニューヨーク航路を延航する形で東回り世界一周航路を開設、欧州への配船を開始したのは1953年(昭和28年)3月31日。盟外での欧…続き
前回つい筆が走って英国紳士の裏の顔を悪し様に書いてしまったが、欧州同盟の盟主、英国船社の中には本物の紳士も少なくなかったようだ。 熊野修一氏によると、三井ファイトの最中、英国船…続き
欧州航路を舞台として展開された“三井ファイト”は日本海運の戦後の目覚めを告げる春雷のようなものだった。 定期船部門への本格参入を意図した三井船舶にとってまさにそうであり、受けて…続き
“三井ファイト”で最も興味を惹くのは、三井船舶の戦い方である。 同社はまず日本郵船に大きな影響がないよう配慮した。日本船の中にあって三井と郵船は「割り合い仲良く仕事をやっていた…続き
1951年(昭和26年)11月12日三井船舶は欧州同盟に1回目の加入申請を行った。そのほぼ同時期に熊野修一氏はニューヨーク在勤を命ぜられている。 52年12月23日、三井船舶は…続き
敗戦直後の日本海運というものを記者は知らない。聞きかじりの知識が多少あるだけだ。当時の海運人は茫然自失の態であったに違いないと勝手に想像していた。ところが熊野修一氏に話を聞き、陳…続き
世に名高い“三井ファイト”も海運人の記憶から遠のきつつある。無理もない。敗戦から間もない61年前の1953年(昭和28年)に勃発した出来事だ。風化は免れようがない。しかし、三井フ…続き