昔はどの世界にも大立者といわれる人物が存在した。運輸省では若狭得治さんがそうだった。 氏は1914年(大正3年)生まれ。東京帝大卒業後、逓信省に入り、運輸省海運総局の官僚とし…続き
運輸省詰めの海運担当記者になったのが1976年(昭和51年)5月。この年の9月、三木内閣は改造に踏み切り、運輸大臣は木村睦男氏から石田博英氏に代わった。さらに3カ月後の同年12月…続き
「日本の港はthin soup」。1998年(平成10年)シンガポールを訪ねた折、同国のPSA(港湾局)関係者にそう言われた。 1970年代後半から1980年代の初めにかけ、P…続き
「秘密は地下に隠すのが一番」。007シリーズの映画『ダイ・アナザー・デイ』の中で英国情報部のMが部下のジェームス・ボンドを相手に吐く台詞である。 人は視線を遮られると、思考力や…続き
日本に消費税が導入されたのは竹下内閣時代の1989年(平成元年)4月1日。税率は3%だった。平成の世は消費税とともに明けたことになる。 その消費税は橋本内閣時代の1997年(平…続き
三木武夫内閣時代の1976年(昭和51年)5月、運輸省詰めの海運担当記者を命じられた。 当時の運輸相は元・運輸官僚の木村睦夫氏。自動車局長を最後に退官し、参議院議員に転身した人…続き
1976年(昭和51年)春、三菱重工神戸造船所と川崎重工神戸工場を取材するため神戸に飛んだ。前年にも2度目の全国巡業(造船所めぐり、前回参照)を行い、この神戸出張を巡業第3波の皮…続き
記者は1974年(昭和49年)秋から全国各地の造船所を訪問して回る出張取材を開始した。IHIの真藤恒社長に「とにかく現場を勉強しなさい。巡業に出たらいい」と言われたからである。真…続き
川崎重工が見舞われたコンテナ船キャンセル事件は転売商談の成立により大団円を見たが、記者の記事のせいで騒動になってしまった。 記者は「商談の落着まで記事にしない」ことを約束してい…続き
川崎重工はコンテナ船の建造契約をキャンセルされるという事件に見舞われた。1974年(昭和49年)だったと記憶している。 発注主は川崎汽船。制度金融(計画造船)を利用しての建造契…続き
130余年に及ぶ川崎重工の足跡を振り返ると、海陸空を網羅する総合重工会社の懐がいかに大きいかを実感させられる。 その一端は川重が本体から分離して新たに設立した企業群からもうかが…続き
今はどうか知らないが、昔の重工会社には重々しい雰囲気があった。三菱重工がその典型。なるほど重工会社だと思ったものである。ところが、川崎重工は違った。角張った印象とは無縁、おっとり…続き
世界の造船地図をご存知だろうか。新造船の竣工量シェアで言えば「中国40/韓国35/日本20」くらいの見当になるらしい。後退したとはいえ、日本はまだ踏ん張っている。ところが最近の受…続き
地球の裏側に位置する遠い国でありながら日本とブラジルは濃密な関係を築いてきた。礎になったのは移民。1892年ブラジル政府は日本人移民の受け入れを表明、1895年には日伯修好通商航…続き
イシブラスの取材が一段落しリオデジャネイロからサンパウロ、サントス、ブラジリア、レシフェなどブラジル諸都市を巡る旅に出た。 途中、世話になった人に「アマゾンを知らずにブラジルを…続き
1974年(昭和49年)1月、ヴァリグの便で羽田を発ち、ブラジルのリオデジャネイロに向かった。記者になって初めての海外取材であり、躍る心地の旅立ちだったが、相当に緊張もしていた。…続き
造船を担当してすぐ大事件が突発した。1971年(昭和46年)8月のニクソン・ショックがそれ。 この日、米国のニクソン大統領は金ドルの兌換停止を電撃的に宣言した。マスコミは第2次…続き
“ぼりばあ丸” “かりふぉるにあ丸”の海難原因を追う取材は訪問する先々で嫌がられた。ことに造船会社の方々は大いに迷惑したはずである。記者も嫌だったが、海難キャンペーンが終わるまで…続き
時計の針を戻し、記者稼業に就いた1970年(昭和45年)ごろを回顧してみたい。古きに過ぎて身勝手な懐古談になりそうだが、その場合はどうぞご容赦を。 昭和45年は日本中が高度経済…続き
菊地庄次郎さんは「不世出の名経営者」と謳われた。この連載でも海運史に輝く氏の遺業をいくつか紹介してきたが、ここでは読者の方から寄せられた情報をもとに菊地式海運経営の真髄に迫ってみ…続き