2022年7月21日無料公開記事内航NEXT 次代への戦訓

《連載》次代への戦訓
丸全昭和運輸で社会人の一歩踏む
日本内航海運組合総連合会前会長 小比加恒久氏③

  • X
  • facebook
  • LINE

 私は1971年(昭和46年)に立教大学社会学部産業関係学科を卒業し、横浜の丸全昭和運輸に入社した。入社後は輸入通関の部署に配属され、そこで2年間働いた。入社した年に通関士の試験を受けて合格したが、1年目で合格したという話を周りであまり聞いたことがなかったので、ちょっとした自慢だった。通関の仕事は面白かったが、当時のことで最も印象に残っているのは為替だ。入社時には1ドル=360円の固定相場制だったが、1973年から変動相場制に移行して円高傾向となり、これから日本はどうなっていくのだろうという感じだった。
 1973年に丸全昭和運輸を退社して東都海運に入社した。周りの人たちから丸全昭和運輸にまず入ったのは家業を継ぐための修行かとよく聞かれたが、けっしてそうではない。私は一人っ子だったが、当時は父の跡を継ぐ気はなく、普通のサラリーマンになるつもりで丸全昭和運輸に入社した。父は仕事人間で朝4~5時から出社し、家で一緒に朝食を食べるのは年に2~3回しかなく、当然夜もほとんど家にいなかった。そういうところが当時はものすごく嫌だった。
 始めは会社を継ぐつもりがなかったのに結局東都海運に入社したのは、たまたま会社で営業の人間を探すことになった際に、父のサポートをしていた幹部の方からお声掛け頂いたからだ。ちょうどその頃、大学の同級生たちから親の会社を継ぐために勤めていた会社を辞めて幹部として入社したという話を聞き、あいつらにできるなら俺にもできるだろうという気持ちになったこともあった。父は私の出来が悪ければ他の人に継がせる考えだったので、将来の社長ありきで入社したわけではなかったが、入社後しばらくしてから一生懸命やらなければならないという自覚が出てきた。
 父が海運会社を経営していたとはいえ、子供の頃は海運に触れることはほとんどなかったが、大学生の夏休みにアルバイトでうちの船に乗せてもらった。私としては少なからずお金がもらえるうえに日本全国に行けるという安易な気持ちで乗船したが、結果的にそれが良い経験になった。1カ月も船に乗ると、船酔いしたり大しけで沈むのではないかと不安になるなど、いろいろなことを経験した。当時の内航船は現在の499総トン型とは違って貨物を積んだら水面すれすれで、台風が来て波を被ると本当に怖かった。ただ、実際に船に乗ったことで貨物の種類や全国の港を覚えたり、船員の仕事の大変さを経験できたことは、後に大いに役に立った。
 東都海運入社後は、周りの人たちからいろいろ教えて頂きながらずっと営業一本でやってきた。オーナー企業では経営者の息子は取締役などの幹部で入社するケースが多いが、私が取締役になったのは入社後12年も経ってからだ。しかし、現場の仕事からスタートできたことは結果的に本当に良かったと思う。

関連記事

  • Sea Japan 2024 特設サイト
  • カーゴ