2025年1月20日無料公開記事海事都市今治の20年
《連載》海事都市今治の20年
情報量と地銀の存在が強み
福神汽船・瀬野利之社長
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競うような形で大きくなっていった
今治船主が成長した理由について、福神汽船の瀬野利之社長は「外航船に出て行ったことで競争心や自立心が生まれた。お互いに切磋琢磨し、競うような形で大きくなっていったのだろう」と分析する。今治船主の強みの1つは、船主の集積効果による情報量と見る。もう1つは地元銀行の存在で、「船主を支え続けてくれたし、無理な投資にはストップをかけてきた。地銀の協力が非常に大きいと思う」と指摘する。
しぶとい今治船主
― 海事都市今治の強みや特徴は。
「市町村合併前の今治市には船主は少なかった。もともと船主がいたのは波方地区(越智郡波方町)と伯方地区(越智郡伯方町)で、20年前に合併したことで今治市が海事都市と呼ばれるようになった経緯がある。波方地区については、明治時代から内航船主がいて、船員がいて、地域全体で船主業を回してきた歴史がある。今治市と合併して海事都市になる前から船主、造船所、銀行、舶用メーカーがいる環境だった。このため、われわれの意識は市町村合併前とそれほど変わっていない。変わったことは、外からオペレーターや商社などの取引先がたくさん来るようになったことだ。われわれが海外向けの用船ビジネスを開始したのは約40年前だが、船主が海外とどんどん商売を決めるようになってからは多くの外国人が今治に来るようにもなった」
― 今治の強みは情報量と言われるがどうか。
「広島などもそうだが、船主や船隊の数が多ければ、オペレーターや商社など関係者が集まってくるので情報は集まる。今治は日本の中では最大の船主集積地なので、その分、多くの情報が集まるのだろう」
― 今治のように船主、造船所、銀行が集まっている地域は少ないのでは。
「いくつかあるだろうが、多くはない。今治は船主と造船所が一体で成長してきた。昔は船主がいるところに船大工がいた。船大工は造船所の前身で、今治などの造船所も船大工から始まっている。戦後には来島どっくが船価の全額後払いというスキームを始め、それでこの地域の船主が外航の鋼船を造り始めて伸びていった。われわれも1959年(昭和34年)に初めて来島どっくで新造船を造ったが、その時も延べ払いだった。われわれが銀行から借り入れができたのは1967年(昭和42年)だが、まだ多くの船主がヤード延べを継続していたと思う」
― 日本全国に船主集積地はあるが、その中で今治船主がこれだけ大きくなった要因はどこにあると考えるか。
「機帆船の時代は用船がなく、自分で荷物を買って運んで売っていたから、皆で協力しないと仕事が上手く回らなかったので仲良くやっていた。それが徐々に変わり始め、皆がどんどん外航船に出て行ったことで競争心や自立心が生まれた。お互いに切磋琢磨し、競うような形で大きくなっていったのだろう」
「不思議なのは今治の船主はどんな状況になっても皆しぶとく生き残っていることだ。今までに船主業から撤退したのは新規で参入した船主が多く、昔から船主業を展開してきたのに撤退を余儀なくされたのは私が知る限り波方地区では2社くらいしかいない。この間、為替、マーケットなどの大変動を幾度も繰り返しているのに、大半の船主が生き残っている」
― しぶとさの理由はどこにあるのか。
「意地もあるだろうし、歴史が長いので学んでいる部分もある。地域の金融機関が上手くやってくれているのも大きな理由ではないか。地域の銀行はリスケジュール(借入金の返済条件見直し)などで船主を支え続けてくれたし、無理な投資にはストップをかけてきた。都銀ではこうした対応は難しいだろうから、地銀の協力が非常に大きいと思う」
― ロンドンやシンガポールなどの世界の海事都市と比較すると、今治との違いはどこにあるのか。
「世界の海事都市と言えばギリシャ、シンガポール、香港、ハンブルク、ノルウェーなどになるが、ギリシャ船主を例にとってわれわれ今治などの日本船主と比較してみよう。大きな違いの1つは、ギリシャ船主は全てにおいて自立していて、能動的に自分で責任を持って船主業を展開している一方、日本は受け身の船主が少なくなく、さまざまな機能を外部の関係企業に依存している。今治にはすべてが揃っている。サポート体制が整っているので、海事都市の副作用として、船主自身の力が弱くなっているところがあるのではないか。ギリシャ船主は何でも自分たちでやるから、われわれと同じ船隊規模でも陸上の人員は2~3倍いる。リスク管理、保険、法務なども自社で対応している。自分たちによる管理や対応を重視しているから自分たちでできる範囲のことしかやらないし、海運マーケットの秩序を守ることも真剣に考えている。このため規模が大きな船主は限られている。ギリシャ船主はハードネゴシエーターとして有名だが、自分たちの資産である船や会社を大事にしていることの裏返しだろう」
船隊も人員も拡大
― 今治の船主、造船所、舶用メーカーなどの過去20年間の大きな変化をどう捉えているか。
「船主や造船所に関しては、自分たちの地元でビジネスが完結していた時代が終わり、それぞれが海外顧客と付き合うようになった。われわれも昔は地元の造船所で建造し、日本のオペレーター向けに船を出していた。船主と造船所の結びつきも強かった。今では今治以外でも船を造っているし、中国などの海外に発注する船主も出てきている。反対に造船所も東京や海外の海運会社から受注するようになってきた。ビジネスという観点では、船主も造船所も地元同士の結びつきが昔ほど強くない」
「舶用メーカーでは提携などの動きも出てきているが、メーカーでも海外展開が進んでいるのではないか。メーカーは船が竣工してからのアフターサービスの部分でその存在が重要になる。日本のメーカーもどんどん海外に出ていて、先日デリバリーを受けた中国建造船もブリッジのパイロット設備は日本メーカー製だった。日本のメーカーが中国造船所などの海外に進出してもらえると、アフターサービスを日本と同じようにやってもらえる。中国建造で一番ネックなのは、船自体の性能もそうだが、舶用メーカーのところが大きい」
― 福神汽船の20年間での大きな変化は。
「人が増えたことだ。20年前は船隊が15隻くらいで、社員も10数人しかいなかった。1990年代の後半からマーケットが良くなって、船隊を拡大してきた。それ以前の1996年には1隻を残して全部売船し、内航船もスクラップしたが、そこから新造発注を増やした。当初は年間2隻ほど、それから徐々に年間3~4隻を発注するようになった。2000年前後からは優秀な人材も入社して人員も拡充していき、今では60人近くになっている。海外を入れると70人を超えるスタッフ数だ」
― ビジネスモデルも変わったのか。
「最近は短期用船の船が増えている。それまでは長期用船で、新造発注する時には用船契約もファイナンスも決まっていた。短期ビジネスを始めたのは最近のことだ。10年くらい前にマーケットが悪い時期があって、オペレーターがなかなか用船契約を決めなくなったり、良い数字を出せなくなったりした。新造船価と見合う数字が取れなかったので、これをきっかけにして短期用船を始めるようになった」
― 短期用船に加えて海外向けのビジネスも増えたのでは。
「海外向けは昔からあったが、10年くらい前から比率が変わってきた。日本のオペレーター向けの用船需要が減少したことが要因だ。今では海外向けが全体の6割くらいだ。半々を保つように努力はしているが、国内向けは条件が厳しすぎるのでなかなか理想的な比率に持っていけない」
― その他の変化は。
「会社の組織で言うと、従来は経理、海務、工務くらいしかなかったが、今では業務、プロジェクト、船員、システムと部が増えて組織が複雑になっている。一人ひとりの実力がついてきていることも大きな変化だ」
― 今治の海事クラスターは今後どうなっていくと思うか。
「船主の課題は、会社の実力が落ちていることではないかと思う。1つは人材の問題で、同族経営の限界もある中、外からの人材を上手く入れられない悩みがあるのだろう。もう1つは船舶管理で、人材不足で管理ができなくなったり、管理が高度化して対応が難しくなっている。ルールもどんどん厳しくなって、船員の教育も大変になっている。そうなると自分ではできなくなって、船舶管理もマンニングも外部委託することになりがちだ。自分でやらなくなると任せきりになってしまうので、管理能力が衰えてしまう。船隊規模に見合った会社の実力があるのか、そこが今後問われてくるだろう」
― 今治船主の中でも優勝劣敗が進んでいくのか。
「資金力のある船主は船の数を増やせるだろうが、それに対する自分たちの実力、本来の船主の仕事である船舶管理能力やコントロール力がついていっているのかどうかだろう。力が落ちてきて、船隊の多くをBBC(裸用船)にしている船主も散見されるが、そうすると本来の船会社ではなく、投資会社になってしまう。もちろん、そういう方法でも良いとは思うが、自分たちは船舶管理ができる船主として生き残っていきたいし、それこそが船主だろう」