2025年1月21日無料公開記事海事都市今治の20年
《連載》海事都市今治の20年
同業連携が産業集積の強さに
新来島どっく・森克司社長
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「技術連携が進めばクラスターは一段と強くなる」と森社長
今治市のこの20年間の変化について、新来島どっくの森克司社長は「同業他社同士が本当の意味で助け合える体制ができた」とし、不況克服や人材面での協力などを経て地域内の造船所同士や舶用関連企業との連携が強まったと指摘する。これにより、今治の産業集積の強さが発揮できる体制になったとし、今後は技術面での連携が進めば一段と今治海事クラスターの強化につながるとした。新来島どっくとしても過去20年で「グループの一体感が強まった」と話す。
企業間・行政・地域の連携強まる
― 海事都市・今治の強みや特徴をどのように捉えているか。
「強みはやはり海事産業の集積だ。外航海運、内航海運、造船所、舶用工業に加えて、金融機関や大手商社、大手損保の支店や駐在が集まっている。これにより、スピード感のある商談対応などに強さが発揮されている。産業の集積が強みだと思うようになったきっかけは、2005年に新今治市の発足と同時に設立された今治地域造船技術センターの存在だ。もともとこの地域の造船所同士は競合関係にあり、相互に交流や意見交換を行う場面はあまりなかった。それが、地域の造船会社と舶用会社が一緒に講師を出し合い、会社の枠組みを越えて人材育成を行うようになった。これをきっかけに、お互いが協力することが自然にできるようになってきた。本当の意味で海事産業が助け合える体制が、この20年間かけてできた。地域の造船所間だけでなく、造船と舶用の交流や、地域の外注業者との連携体制も強まった。当社が八潮工業の経営をお引き受けしたのも一例だが、お互いに助け合える地域になりつつある。これによって初めて、産業集積の強さが発揮できるようになったと思う」
― 連携が強まったことが、この20年の今治の海事産業の最大の変化か。
「そう思う。造船不況を乗り越えたことや、人手不足という共通の課題もあり、同業者同士が悩みを相談できるようになってきた。仕事量の山谷を地域で解消できないか相談したり、造船所間で人員の貸し借りがスムーズに行えるようになるなど、会社間での協力が増えた。一緒にバリシップや技術センターの運営、今治工業高校の造船コースの立ち上げなど、オール今治で協力する場面が増えた成果だ。今後、技術的な連携などもできるようになれば、今治は日本のみならず世界をリードする海事クラスターになれると思う。日本造船業は中国・韓国と競っていくためにオールジャパンで連携を強化することがテーマになっているが、今治にはそういうことが自然とできる下地ができた」
― この20年で今治の海事クラスターでの変化は他にあるか。
「海事産業に関する行政の姿勢も変わった。以前は業界と行政の関係はそれほど密接ではなかったと思う。当社も技術センターの構想が出るまでは県や市と深く関わる機会はそれほど多くなかった。だが、今治市と越智郡が合併で1つになり、海事産業が一体となるうえで、行政がうまくつなぐ場を作ってくれた。今は行政ともさまざまな相談ができる関係になった。また、バリシップなども通じて海事産業と地元との関係も強くなってきた。造船所や舶用メーカーが工場見学にも積極的に対応するようになっており、行政と商工会議所が音頭を取って、市内の小中学生や県内の高校生などを対象とした工場見学会を実施しており、日本中小型造船工業会と日本財団も協力してくれている。当社も2006年から大西工場の感謝祭を工場見学会として一般にもオープンにしており、市内の方々が参加してくれている。かつては造船所には、見学会などは人手や時間もとられるため消極的な気持ちもあったと思うが、造船業への理解を深めてもらい、子供たちが将来的に地元に定着したり、外から戻ってくれるようになれば、という長期的な人材確保の視点で前向きに取り組めるようになってきた」
存在感ある造船所に
― 新来島どっくにとってのこの20年は。
経営理念や経営方針はぶれないが、周辺環境は大きく揺れ動いた20年だった。今から20年前というと、当社は設立18年目を迎え、造船不況の波を何とか乗り越え、伸び上がろうとしていた時期だった。2003年頃から受注が増え、仕事量にもようやくめどが立ち、増産体制に入った時期だ。採用活動もそれまで不況で控えていたが、団塊世代の定年退職の時期が迫っていたこともあり、新卒・中途で積極的に行うように転換した。ところがその後の2008年のリーマン・ショックで先行きが暗くなり、増産体制に急ブレーキをかけざるを得なくなった。16年からは線表を伸ばしながら最低限の仕事量を受注するような、本当に厳しい不況が続き、建造量縮小や人員の自然減を余儀なくされた。22年時点では操業は16年の4割減にまで減った。今は低船価受注船の建造をおおむね終え、ようやく利益を出せる水準まで回復した。一方、資機材や人件費の高騰、環境対応に向けた投資費用の増加がこれから見込まれるため、まだ安心はできない。操業はまだ全盛期の頃まで戻っていないが、いまはそこに向かって着実に歩んでいる。3年~3年半分の仕事量もいただき、今まで同様お客さまに喜んでもらえる船づくりを続けることで収益体制もこれから高めていける。20年を経て、企業基盤が整ってきた」
― 20年前と比べて最も大きく変わった点は何か。
「グループの一体化と、グループ力の拡大だ。20年前は、グループが本当の意味でまだ1つになっていなかった。当時は新来島どっくと、グループの豊橋造船(現新来島豊橋造船)、新高知重工(現・新来島高知重工)、カナックスの『四社体制』が確立した頃だが、それぞれに昔のやり方も残っていた。04年からの好況と、その後の不況で、体制作りも含めてグループが1つにまとまったと思う。また06年に、現在の新来島宇品どっくをグループ化し、21年にはサノヤス造船がグループに加わった。これによって日本の造船業界の中でも一定の存在感を持つ会社になれたと思う」
― この20年間で新来島どっくにとってターニングポイントとなった出来事は。
「1つは、リーマンショックにより、拡大路線から堅実路線に転換したことだ。造船ブーム期にはどの造船所も受注を増やしていたが、当社も受注が増えたことで、大西工場の修繕用ドックを新造用に切り替えて新造ドック3本体制とし、クレーンも大型化して工場敷地も拡張し、拡大路線に向かっていた。だが、その路線に2008年にストップをかけざるを得なくなった」
「もう1つの転機は、やはりサノヤス造船のグループ化だ。不況が続く中でも拡大している造船所はおり、このままでは当社の市場での存在感がなくなるとの危機感があった。不況時にも売上1000億円規模を維持できる企業にしたいとの思いもあった。そこで縁があり、21年3月にサノヤス造船を新来島サノヤス造船としてグループに迎えることができた。この意義は大きい。1つはバルクで力を持つ専用工場が加わったことだ。当社は自動車船とケミカル船、内航船など中小型のニッチな分野で存在感を発揮するスタイルだったが、不況になるとバルカーがメニューにないと戦えないことを痛感していた。バルカーを製品の柱に加えたいと思っていた中で、この船種で競争力のあるサノヤス造船が加わった効果は大きかった。また、グループ化のねらいだった設計力の強化と、タンク事業が加わったことは、タイミングとしては最適だった。LNG燃料タンク内製化の基盤ができ、グループとして新燃料対応へのスタートダッシュにつながった。また、大型の修繕用ドックを持ったことでグループ建造の自動車船、RORO船も修繕可能となった」
高等教育の充実テーマ
― 海事都市・今治を将来的にどのようにしていきたいか
「これからも日本一の海事クラスターとしてさらに発展し、『世界一の海事クラスター』と呼ばれるようにしていきたい。そのためには、学生が集まる地域にしなければならない。少子化が加速する現状、今治地域の海事クラスターとして今後必要なピースの1つに高等教育がある。造船工学を学ぶことができる大学が減少する中、地元大学に専門教育プログラムの設置や学び直しの環境の整備をしていただき、われわれ海事産業も共同研究や講師派遣などで参画していきたい。また、大学で船舶工学を専攻しても就職時に造船業を選択しない学生が多いことが課題と言われているが、その一方では、造船を専攻していない学生でも造船所で働いてみたい人もいる。そういう人たちに対し、今治地域造船技術センターの枠組みを広げ、例えば1年間、土日に通って造船を学べるような体制が今治地域にできればと思う。また、今治工業高校の造船科をさらに拡充する考えもあるのではないか。海事産業に興味を持つ学生が全国から今治地域に集まるようになると、一段と今治は進化する。学生が集まれば、町も活性化する。日本で海事に関わる仕事がしたければまずは今治に行く、となるよう、今治の海事産業が協力できれば良いと思う。その地盤は十分にできている」